人類の歴史のある時点で、農業が生まれました。
言うまでも無いことですが、ぶどうも農作物の一つですから、ワインも広い意味で農業製品と言うことができると思います。
改めてそう考えると、人類とワインは実に長い付き合いになりますね。
人類、或いは単に酒飲みという言葉を使ってもいいのかもしれませんが、「飲みたい」という欲求を内に秘めた人々が長い長い時間をかけて世界の様々な場所で、ぶどう、そしてワインを作ってきました。
ぶどうの栽培方法が確立され、醸造技術が洗練され、ぶどうそのものも改良が続けられてきました。
そして、ワインの保存技術、輸送手段が少しずつ発達しました。
長い時間がかかりました。
長い、長い時間がかかりました。
そんな無数の先人達の途方も無い努力と気の遠くなるような時間を経て、我々酒飲みの前に、ワインが存在しているのです。
そういう意味では、今この瞬間、目の前にあるワインは、人類の歴史における「完成品」というレベルのものばかりです。
そんな風に考えると、何だか無性に嬉しくなりますよね。
今、目の前にある、テンプラニーリョ単一、フレンチオークで半年ほど樽熟成させたワインを抜栓するとします。
リオハのものがいいでしょうか。
2020年あたりのヴィンテージであれば、丁度飲み頃でしょう。
色見と香りを確かめるよりも早く、つい口に含んでしまいます。
しっかりとしたアロマのニュアンスを感じ、スペインの太陽が体の中に入ってくるのを感じます。
こうなると、現代の酒飲みは想像し始めます。
酒飲みという部類に属する一部の人類が、アルコール成分の入ったぶどう由来の飲み物を遺伝子レベルで欲していたのか。
或いは、現代においてワインと呼ばれる飲み物が、何らかの理由で偶然生まれ、それを口にした一部の人類が、酒飲みへと「進化」していったのだろうか、と。
正に卵が先か鶏が先か、です。
実にくだらない問いかもしれません。
同時に、一考に値する哲学的命題かもしれません。
真実は誰にもわかりません。
でも、世界中の酒場で交わされる議論の殆どは、きっとこのようなことを永遠に繰り返しているだけだ、と言い切ってしまいたくもなります。
こんなことを思うのも、このリオハのテンプラニーリョのせいでしょうか。
芳醇な香りを放つ赤のせいでしょうか。
抜栓したワインは、飲み切らなければなりません。
飲み干されなければなりません。
ワインとは大昔の酒飲み達と乾杯できる、そんな飲み物だと定義することができるのかもしれません。
いや、飲む前であれば、誰一人そんな定義はしないのでしょうが。
しませんよね。
しないはずです。