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聖なる酔っ払いの修業時代

作:スペインワインインポーターの 「あ」の男

Vol.1 酒類を輸入するということ
              

今日、非常に乱暴な言い方をすれば、誰でも酒類を輸入することはできます。
一個人でも、異国の酒を国内に持ち込むことは容易です。

例えば旅先のスペインで素晴らしいワインを見つけた人が、物理的に数本を持ち帰ることは簡単なことです。
スペインを代表するぶどう品種を使っている、或いは珍しい土着品種を使っているワイン。
銘醸地と言われている産地のもの、或いは、生産量の極めて少ない産地のもの。
旅の途中でそういった出会いに恵まれれば、日本でも飲みたいと思うのが酒飲みなのです。

しかしながら、一本のワインを物理的に持ち込むこととは別の次元の感覚や概念も同時に存在します。

酒場のざわめきやバルでの食器が生み出す音、更に大袈裟に言えば、そのぶどうの産地や農家が持つ歴史、その地方の食文化といったものは、物理的にはどうしても輸入できません。
当たり前のことですが。

アルコールの入った液体

個人でも組織でも、酒類輸入に携わる者は、この「輸入できない」という感覚の部分に、自覚的にならなければならないと思います。
そうでなければ、持ち込まれた酒類は全て、単なる「アルコールの入った液体」になってしまうと私は思います。
どういうことでしょうか。

アメリカの詩人アーサー・ビナードが、非常に興味深いことを言っています。

日本の魚屋では、正に食材としての魚が売られている。
しかし、スーパーマーケットでは、「魚の死体」が並べられている、と。

詩人の言葉の感覚に大いに共感します。
そして、日本に輸入された多くの酒類は、もしかしたら、「酒の死体」になっているのではないか、と思うことがあります。

バルクで大量に輸入され、日本で瓶や缶に詰められるワインとビール。
もちろん、経済効率から考えれば、利益を出せる正しい方法でしょう。
誰も否定はできません。
特に価格のみを重視すれば、結局、こういったやり方になります。

が、それでも私は問いたいのです。
わざわざ異国の酒類を求める酒飲みが価格だけを見ているのでしょうか、本当にそんなやり方でいいのでしょうか、と。

『 物語 』

酒類の輸入に携わる個人や企業は、これまで以上にその酒の背景や物語を伝える覚悟が必要だと強く思います。
そして、そんな輸入業者を育てるのは最終的には酒飲み一人一人の思いでもあることも指摘したいのです。
末端の消費者の意見は、必ず業界を動かします。
国産・外国産を問わず、情熱をもった生産者が作る多くの酒類、選択肢があることこそ、豊穣なアルコール文化を生み出す第一歩であるはずです。

老人ホームの毎日の昼食にさえその地元のワインが供されるスペインの食文化を、そのまま日本に持ち込むべきだ、などと言うつもりは全くありません。

が、そういった国で生まれた酒であると知ることには意味があると思います。
そんな土地のことを思いながら飲む酒は、もしかしたら普段よりも愉快に酔える、特別な一杯になるかもしれません。

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